短編小説 〜その⑤〜



彼女は20代後半に足を入れたばかりの女性で私とちょうど10歳離れていた。



私は女性が10歳も年齢が離れた男とどのような気持ちで会うのかわからなかったが、それでも彼女はクリームソースのニョッキを食べながらとても幸せそうに私との会話を愉しんでいるように見えた。それともそれはゴルゴンゾーラのクリームのおかげかもしれなかった。



「わたし、あなたのことが好きよ」と彼女は言った。



食事も終盤に差し掛かり、我々の前にはデザートが運ばれてきていた。2杯目の白ワインとその横に水の入ったグラスも置かれている。



「どんなところが?」と私は訊ねた。



「大きなくしゃみをしないところ」と彼女は言って静かに笑った。まるで春の小川のようだ。



「くしゃみ」と私は繰り返した。



彼女は軽く肯いた。肯くときに長いまつげの瞳を一度はっきりと閉じた。それはまるで舞台の緞帳(どんちょう)のようだった。私は彼女の話の続きを待った。



「ほら。男の人ってくしゃみをするときに大声を出す人がいるでしょ? わたしはね、くしゃみの下品な人が嫌いなの。わたしの観察によれば、男の人って年齢を重ねるごとにふたつに分かれていくのよ。



つまり、くしゃみが上品な人と下品な人ね。不思議なことにその間はないの。どこかで分水嶺のような明らかな線があってね、それを境にきっともう片方には行けなくなってしまうのよ」



「興味深いデータだね」



「わたしは真面目よ」彼女は怒ったような表情を見せた。



「別に馬鹿にしてるわけじゃないさ。ただ本当に思ったんだ。僕はそんなふうに人を観察したことはなかったから」



「そう?」



「うん。そうだね」



「ならあなたは人のどんなところを見ているの? たとえば渡部さんみたいな人の」彼女は渡部氏の会社で受付をしている。



私は少し逡巡した。「どんなところか……。金に綺麗なところとか?」



「お金に綺麗ってどういうこと?」



「ひと言で言えば金払いの良さ、と言ったところかな。それは気風(きっぷ)の良さとも少し違うし、大金を簡単出すのとも違う。もちろんそれは金持ちか金持ちでないかというのでもない。僕が言っているのは必要なときに金をスマートに出せるかどうかということなんだ」



「スマートに?」と彼女は私を促した。



「そう。スマートに。仮に金がなくて、それをうまく払えないとするだろ?」と僕は若い時分を思い出しながら言った。「そんなとき、別の理由を言ったり言い訳をしないことが重要なんだ。そんなときははっきり言えばいいんだ。金がないってね。けれど多くの人がそれができない」



「あなたの観察によるとそうなのね?」



私は肯いた。「君のくしゃみに対する観察と同じように。そして金を借りて、その時期の返済が難しそうな場合、それを自分から言わないのもよくない。逃げてしまいたくなるような状況で人の真価が試されるんだ。そういう状況をどう切り抜けるかでその先の可能性が大きく変わるとさえ思ってる」



「それは分水嶺のようなものかしら?」



「あるいはそうかもしれないね」と僕は言ったあとで、渡部氏がくしゃみをするところを想像してみた。けどそれはうまく想像ができなかった。おそらく彼と付き合いはじめてからこの数ヶ月の間に私は彼のくしゃみを見たことがないのだろう。



「ところで、渡部さんのくしゃみは上品なの?」と私は訊ねてみた。



彼女はまた瞼を閉じてそれに答えた。それは首で肯くよりも説得力のある肯き方だった。「とてもね」そして彼女はまた静かに笑った。



食事を終えると我々は青山一丁目の地上出口まで一緒に歩いた。店からは数分の距離だった。そこで我々はキスをして別れた。彼女の唇から察するときっと彼女はもう少し一緒にいたかったのだろう。しかし私はそこで「またね」と言った。



彼女の履くカルティエのヒールの音が地下に消えていった。私はそこでタクシーを拾って「北参道まで」と一度言ってから「やっぱり千駄ヶ谷までお願いします」と訂正した。少し歩きたい気がしたのだ。





「BMWのタクシーなんてめずらしいですね」と私は言った。



「ありがとうございます」と運転手は言った。「人と同じものが嫌いなもので」



輸入車のタクシーに乗ったのはそのときがはじめてだった。



「でも個人タクシーでBMWなんて使ってしまって元が取れるもんですか? 最近は初乗りの料金も下がっていますし」



「なんでもやり方次第なんですよ。重要なことは、決めつけてしまわないことです」



「と言うと?」



「そうですね。個人タクシーの稼ぎ方なんて実はいくらでもあるんですよ。こうして少し高級な車を用意していれば、固定客からの指名も取れるようになりますしね。



それはそれで緊張感を伴う仕事ですが、そのぶん入りもいいんです。やりがいもありますしね。大事なことはそれをどのくらいのレベルでやりたいか、ということです」



「なるほど」と私は言った。彼はひと言言葉を発するたびに金言めいたことを言う運転手だった。もしかしたらBMWの5シリーズがそれを強調したトーンで響かせているのかもしれない。



「ところで、お客さん」と運転手は言った。



「なんでしょう?」



「先ほど、あちらでキスをされていたでしょ? この車を拾う少し前」



「だとしたら?」私は動揺を押し殺して答えた。どうやら見られていたようだ。



「おせっかいかもしれないんですが、あのお嬢さんね、たぶん浮気してますよ」それはまるで占い師のような口ぶりだった。「おそらくお客さんの他に2人ほどお相手がいます」



「なぜそれが?」



「なぜそれが分かるか、ってことですか? 彼女の去り方ですね。あれは余韻をうまく残す去り方だった。お客さんが今日1人になりたいのを知っていて、わざと別れを惜しむような別れ方です。



まあ断定はできませんがね。でもあれは余韻を残すのに慣れている。でもそれが逆に妙な違和感を与えるんです」



「違和感を与える」と私は言った。



「人をきちんと観察していれば色々なことがわかってくるんです。まあ決めつけてはいけないんですがね。でもまあ、観察を伴った判断ならいいと思うんです」と彼は言った。



「そういうものですか」



ええ、と彼は言った。「またあのお嬢さんに会ったときにでも確認してみるといいですよ。まあ訊き方は難しいとは思いますが……。あれ、千駄ヶ谷でいいんでしたよね? 北参道じゃなくて」



「そうです。それで大丈夫です」と私が言ったタイミングで車が千駄ヶ谷の駅前の交差点に到着した。私はアメックス――ビジネスゴールド――を使って支払いを済ませた。



「今日は新月の夜です。せっかくの新月の夜なんですから、ひとりの時間をお楽しみください」と彼は言った。



新月? 新月がなんだというか。そう思っている間にドアは閉まり、BMWは静かに発車して、すぐに見えなくなってしまった。



その⑥へ

言葉のちから

僕らの言葉と想いと行動が きっと世界を変えていく 少しだけいい方向に

0コメント

  • 1000 / 1000