短編小説 〜その⑥〜



時刻は22時過ぎだった。夜になって気温が下がることは予想していたが、それでもTシャツにオクスフォードのシャツだけでは少し肌寒く感じられた。



私はそのまま北参道の交差点に向かって歩いても良かったが、踵(きびす)を返し神宮外苑の方に向かうことにした。そんな気分だったのだ。



夕方にランニングしたその道を歩きながら私は彼女のことを考えた。彼女が浮気をしているようには私には思えなかった。しかしながらそこには確証というものがなかった。



浮気しているようには思えなくても、浮気をしていないという確たる証拠や確信がないのだ。わたしの手元にあったのは彼女に関する少ない材料でしかなかった。



それはしばらく買い出しを忘れた冷蔵庫の中身のようなものだった。材料が少ないなら少ないなりに、それで料理を作るしかない。そういうものだ。



彼女と会うようになってからまだ2ヶ月弱しか経っていなかった。私は彼女と会った回数を思い出してみた。そして彼女との性交の回数を数えてみた。彼女とは合計で7回会って、我々は5回身体を重ねていた。



別に日記にその回数を付けていたわけではないがそれは自然に思い出すことができた。彼女とはじめて食事をした店のことを思い出すと、その後にしたセックスのことが思い出された。



そしてその次に会ったレストランを思い出せば、次にしたセックスのことを連鎖的に思い出すことができた。以前したセックスのことを思い出せるのはいい気分だった。



神宮外苑に差し掛かった私はいつものランニングとは逆の向きに外周を進むことにした。しばらく歩くと小さな公園が期間限定のビア・ガーデンになっていた。しかし平日の22時すぎともあって、人の声はまばらだ。



BGMにはなぜかデュラン・デュランのリフレックスが流れていた。21世紀になってもうしばらく経つというのに、そこでデュラン・デュランが流れていることに私は少し驚いた。



そこを通り過ぎながら、私はまた彼女とのセックスのことを思った。彼女は決まって情事のときにはジャズを流した。そしてそれは7回ともチェット・ベイカーだった。



チェット・ベイカーの「シング」というアルバムを情事の最中に聴くのは妙な気分だったが、彼女の口がぬるりと私のそれを口に含むときのなんとも言えない湿り気がチェットのつややかな声に合っていなくもなかった。



私は彼女がそれをしてくれるのを眺めるのが好きだった。しかし彼女は見られるのを嫌がった。だから私はいつもぼうっと天井を眺めていた。



私の視覚は天井を捉え、聴覚はチェットの声を掴み、下半身の触覚は彼女の舌を感じていた。それは少し不思議な感覚だった。まるで自分がそこにいないような感じがした。今思い出してみてもそれは不思議な浮遊感を私にもたらした。



神宮外苑を目的もなく歩きながら、私はその感覚に身体を預けていた。



そしてふとチェット・ベイカーは誰の影響を受けたのだろう、と考えてみた。しかし私はすぐにそれをやめた。そんなことを考えてなんの意味がある。今日はせっかくの新月の夜なのだ。



せっかくの新月?



そこで私はふと我に帰った。あのドライバーは私になにを言おうとしていたのだろうか? そして辺りを見回してみた。車の音がない。場所はちょうど外苑の始点にあたる場所だ。



左手にはイチョウ並木が青山方面に向かってまっすぐに伸び、右手は広場になっている。そこには噴水が設置されているが水は出ていない。その先に目をやると絵画館と代々木のドコモ・タワーが見え、別の方角にはタワー・マンションの頭が見えている。



空にはいくつかの星も見える。私はそこで立ち止まり、なにかが来るのを待ってみた。その「なにか」は車でも良かったし、飛行機の音でも良かったし、鈴虫や夜蝉の鳴き声でも良かった。



選挙カーの耳障りな演説でも良かったし、チェットの声や彼女の喘ぎ声でも良かった。それが音という種類のものであればとにかくなんでも良かった。しかし数分(おそらく数分経ったはずだ)待ってみてもなにひとつ音は聞こえてこなかった。



気付くと私は息を潜めていた。私はなにかのなかに取り込まれてしまったのだ。本能的にそう思った。



しかしまだなにも聞こえてこない。そこで私は来た道を引き返すことにした。



スタン・スミスの靴が音を立てないように静かに進んでいく。まるで靴同士が会話でもしているようだと感じた。お前が先に行け。いや、お前が先だろ。仕方ないな。そんなやりとりをしながら、いつもより不規則に幾分ゆっくりとしたペースでスタン・スミスは歩を進めてく。



やはり車は1台も通らなかった。ラジアル・タイヤの音も、エンジン・ブレーキの音も、直列6気筒の太く乾いた音もしなかった。今ではマセラティの下品な排気音でさえ恋しかった。それくらい私は音を欲していた。



私はそこで立ち止まり、ひとつ咳払いをしてみることにした。それは極めて普通の咳払いだった。喉になにかがつまってそれを外へと押しやるような咳払いだ。



その音はしっかりとした音として聞こえた。つまりここには空気があり、それが振動し、私の鼓膜を揺らし、それを脳が電気的信号として認知したということになる。



私はそこまで確認できると鼻から大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。私の呼吸の音もきちんと聞こえた。大丈夫だ、と私は思った。なにが大丈夫かはうまく説明できないが、とにかく大丈夫だと思ったのだ。



つまり現実的な物理世界の法則がここでもきちんと機能しているということに私は安心したのだ。



手を叩いて音を出してみようかとも思ったがそれはやめた。誰かに気付かれてしまうような気がしたのだ。それが誰かはわからない。けれど、あまり大きな音は立てない方がいい。そんな気がしたのだ。





スタン・スミスはまた譲り合いながら先へと進んでいく。



先ほど通り過ぎた遊具付きの公園の傍までやってきた。みっつある外苑の入口のうちのひとつだ。右手には公園があり、その隣にはビア・ガーデンがある。



しかしそこからは先ほど聞こえた声も、ジョッキで乾杯する音も、デュラン・デュランのリフレックスも聞こえてこなかった。私の左手には絵画館のオレンジ色の灯りが見える。



そのまま進んでビア・ガーデンまで行くこともできたが、私は絵画館の放つその光が気になり、そちらに進むことにした。外苑の敷地内だ。



普段ならきっとそこを誰かが歩いているはずだが、私は誰ともすれ違わなかった。しかしこの時間にここに来たことはなかったため、それは定かではなかった。もともと人通りがないのかもしれない。



東西の方向に200メートルほど伸びたその道は、楕円形の神宮外苑を途中でショートカットできるかたちで結んでいた。道幅は10メートルといったところだ。そこは都心の一画にあって自然豊かな場所だった。



私はトネリコの樹を通り過ぎて、絵画館の入口に向かった。建物の前には2頭の一角獣が対になって並んでいる。彼らは今にも走り出しそうな格好で前肢を大きく振り上げ、後肢だけで身体を支えていた。



それらは下からライトアップされて少し不気味な陰影をその顔に作っていた。2頭の間には国旗を掲げるポールがあったが、旗は掲げられていなかった。あるいは時間によってそこに日の丸がはためくのかもしれない。



私はロック・クライマーが足場を確認する具合で入口の階段を一段ずつ丁寧に登っていった。数段先には縦に大きく伸びた扉がみっつあった。絵画館の入り口のドアだ。



真ん中の扉は木製で、両脇のふたつはガラスをはめこんだタイプのものだった。ガラス窓がついた扉には鉄の枠があり、それはところどころで渦模様をつくっていた。その枠の間のガラスからは、なかの様子がぼんやりと透けて見えている。



私は興味を引かれてガラスにもう少し顔を近づけてみた。



なかが先ほどよりもよく見える。入口のすぐ向こうにはまた同じようなつくりの両開きの扉がみっつあり、右手には券売所が見えた。私は外苑をランニングすることはあってもここに立ち寄ったことはなかった。なかにはなにがあるのだろうか?



私はガラスから顔を離した。相変わらず周りに音はない。



そのとき私は自分の左側から風のようなものを感じた。風というよりも、空気全体がかたまりとなって私の周りで動いた感覚だ。



それが流れてきた方を見ると、小さなプレハブ小屋のようなものがあった。私が絵画館の前までやってきたとき、それはそこにあっただろうか? 少し考えてみたが、わからなかった。記憶をたどるより先に私はその小屋に向かって歩きはじめていた。



その小屋は特設されたものであるらしく、嵐が来たらすぐにバラバラになってしまいそうなつくりをしていた。人ひとりが入れるくらいの大きさだ。



フロント部分にはアーチ状になった小窓のようなものがあり、その下には台のようにこちらに向かって平らなものが伸びている。どうやらそれは券売所らしかった。



しかし、とわたしは思った。券売所は建物の中にあったではないか。



その台座の下にはプラスチックでできた長方形の札が貼ってあり、開館時間と閉館時間が書かれていた。閉館は夕方の5時と書かれている。どう転んでも今は閉まっている時間帯だった。



私はしばしそのプレハブの建物――と言えるほどのものではないが――を上から下まで眺めながら、どうするべきか逡巡(しゅんじゅん)した。そしてふと思い立って券売所の小窓をノックしてみることにした。なにかするべきだという衝動に駆られたからだ。



私は右手でグーの形をつくり、中指の第2関節のあたりを突き出して山のかたちをつくり、その扉を二度ゆっくりとノックした。



トン、トン、、。



反応はない。それもそうだ。そのノックの音は咳払いと靴の音以外で久しぶりに聞いた音だった。ノックの音が消えてしまうと、辺りはまた静寂の世界に戻った。私の息の音は少し乱れていた。



私は一度視線を広場の方に向けてみた。一角獣の角は相変わらず天の一点に向かって伸びていた。もしかしたら彼らが動くかもしれないと思い、私はじっと彼らを見つめてみたが、そんなことは無意味だった。



それから私はひとつ息を大きく吐いて、もう一度小窓をノックをしてみることにした。やはりそこになにかがある気がしたのだ。そして今度は三度ノックした。



トン、トン、トン、、。



沈黙。



当たり前だ。こんなところになにがあるというのか。期待した私が愚かだったのだ。



そのときバシャッという音がして突然小窓が上に開いた。家の軒先にあるシャッターと同じ要領だ。私は思わず一歩後ずさりをした。小窓の向こうにはガウンをかけた老婆の姿が見えた。



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言葉のちから

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